こんにちは、尋(たずね)です。
皆さんはジャズピアニストのBill Evans (ビル・エヴァンス)はご存知でしょうか。
『ジャズピアノの詩人』と呼ばれ、ジャズの歴史上きわめて重要なプレイヤーの一人として知られています。
私は社会人になってから少しづつJazzを聴き始めたのですが、
『My Romance』はじめて聴いたときに
『こんなに美しい曲があるんだ』と衝撃を受けたのを今もはっきりと覚えています。
家にレコードプレーヤーを置くようになってから
さらにビル・エヴァンスの音楽を聞き続けていて、今や生活には欠かせない音楽のひとつとなっています。
今回はそんなBill Evans (ビル・エヴァンス)の音楽や悲劇的な生涯などを通して
彼の魅力を紹介したいと思います。
1. ビル・エヴァンスの生い立ちとキャリア
生い立ち
ビル・エヴァンス(出生名はウィリアム・ジョン・エヴァンス(William John Evans)は
1929年8月16日、ニュージャージー州プレインフィールド生まれました。
音楽好きだった父親、ハリー・L・エヴァンズは、
幼い頃から兄と共にエヴァンスに音楽を学ばせていました。
6歳からピアノ、ヴァイオリン、フルートを学び、10歳でモーツァルトを弾きこなしていたそうです。
クラシック音楽に親しんだ後、10代に入ると兄と共にジャズにも関心を持つようになり
アマチュアバンドでピアノ演奏するようになりました。
1946年にサウスイースタン・ルイジアナ大学に入学、音楽教育を専攻し、作曲とクラシックピアノを学びます。
その一方、並行してアマチュアミュージシャンとしての音楽活動も活発になり、ジャズバンドを結成します。
さらに1955年にはニューヨークへ移住し、本格的にジャズ奏者としての活動を開始していきます。
50年代当時はジャズ奏者のほとんどがアフリカ系アメリカ人の時代でした。
そんな環境のなかで、白人であるエヴァンスは疎外間を感じながらも着々と存在感を示していきます。
クラシックからの影響を取り入れたエヴァンスの演奏は独自の美しさをもっており、
ジャズ界の注目を集めるようになりました。
歴史的名盤『Kind of Blue』への参加
そして1958年、29歳のときに大きな転機が訪れます。
ジャズ界のトップ・プレイヤーとして活躍していたのマイルス・デイビスに認められ、
マイルス・デイビス・セクステットのメンバーとして抜擢されます。
その翌年の1959年に歴史的名盤
『Kind of Blue (カインド・オブ・ブルー)』のレコーディングに参加します。
作品は好評を博し、ピアニストとして参加したエヴァンスの名声が大きく高まりました。
このジャズ史に残る傑作はあくまでマイルズ・デイヴィスの作品ではありますが、
エヴァンスの存在を中心として企画されており、彼の参加がなければ生まれなかったとも言われています。
『ジャズ史上最高のアルバム』と呼ばれ多くの人に愛される
歴史的名盤なので聴いたことがない人はぜひ聴いてみてください…!
黄金期
マイルス・デイビスのバンドを脱退した彼は、
自分がバンドリーダーとなってピアノ・トリオを結成します。
メンバーは、ドラムのポール・モチアン( Paul Motian)と
ベースのスコット・ラファロ (Scott La Faro)の計3人です。
この時のベース、スコット・ラファロこそ、
エヴァンスにとって生涯最高のパートナーとも言えるベーシストで、
彼との共演によって生み出されたこの時期の作品たちはビル・エヴァンスの黄金期と呼ばれています。
①『Portrait in Jazz』(ポートレイト・イン・ジャズ)
②『Explorations』(エクスプロレイションズ)
③『Waltz for Debby』(ワルツ・フォー・デビイ)
④『Sunday At The Village Vanguard』(サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード)
の1959年から1961年にかけてつくられたこの4作は、
『リバーサイド四部作』と呼ばれ、最高傑作と称されています。
ベーシスト スコット・ラファロの急死
1961年7月6日、『Waltz for Debby』の録音からわずか11日後に、
スコット・ラファロの運転する車が路外に飛び出して木に激突し
彼は25歳の若さでこの世を去ってしまいます。
エヴァンスはショックの余りしばらくの間ピアノに触れることすら出来ず、
レギュラートリオ活動を停止することとなり、半年もの間シーンから遠ざかってしまいます。
そしてこの出来事がビル・エヴァンスの薬物乱用をエスカレートさせてしまった一因とも言われています。
新たな挑戦とジム・ホールとの共演
スコットの死の後、ビルは後任のベーシストとして、チャック・イスラエルを迎えます。
1962年に『Moon Beams』を発表しますが、その出来に満足できずリズム楽器なしの作品に挑戦します。
ジャズ・ギタリストのジム・ホールと共演し、ギターとピアノがお互いにアドリブでやり取りをしながら、
音楽を生み出していくといったそれまでにない画期的な試みをおこないました。
そして1962年に発表した『Undercurrent』は彼の代表作の一つになりました。
個人的にも大好きな作品です!
ライブ・アルバム ソロ・アルバムの発表
1968年、ドラムのジャック・デジョネット、ベースのエディ・ゴメスとトリオを組み、
モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演します。
そしてライブ・アルバム『Evans at the Montreux Jazz Festival』を発表。
翌年の1969年には、初のピアノ・ソロ・アルバム『Alone』を発表しました。
2度の悲劇、そして死
その後、2度の悲劇が彼を襲います。
1973年、別れたばかりの内縁の妻エレインがニューヨークの地下鉄に飛び込んで自殺してしまいます。
日頃より麻薬を常用してましたが、この悲劇は彼をさらに麻薬の深みへと追いやって行きました。
悲劇はそれだけでは終わらず、
1979年に彼はピアニストでもありピアノ教師でもあった実の兄のために
『We Will Meet Again』を発表しますが、
この作品を聴くことなく彼の兄が自らの頭を銃で打ち抜いて自殺してしまいました。
この悲劇が彼を襲った時、すでに彼の身体は麻薬と栄養失調によって、
取り返しのつかない状態になっていました。
そして1980年9月15日、エヴァンスはクラブ・ファッツ・チューズデイでの演奏中に倒れてしまい、
そのまま息を引き取ってしまいました。
直接の死因は、肝硬変ならびに出血性潰瘍による失血性ショック死でした。
永年の飲酒・薬物使用で、人体の薬物・異物分解処理を司る肝臓に過剰な負担をかけ続けた結末で、
彼の身体はボロボロになっていたようです。
エヴァンスの死の直前に2度に渡り診察を行った医師ジェームス・ハルトは
『自分がひどい病気であることを彼は知っていた。入院を勧めたが応じなかった。
彼には生きる意思が全く無いように思えた』と証言しています。
2. 薬物依存について
エヴァンスの薬物使用は大学卒業後のアメリカ陸軍での兵役を強いられた
1951年から始まったと言われています。
兵役中は当時の朝鮮戦争の前線に向かうようなこともなく
大学での経歴によって陸軍バンドでの活動機会も与えられたものの
エヴァンス自身にとっては不快な期間であったと伝えられています。
1950年代後半のマイルス・デイヴィスとの仕事の頃には既に問題となっており、
ヘロインのために体も蝕まれ、金銭的にも余裕はなかったそうです。
1963年、ヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の時、右手の神経にヘロインの注射を刺したことから
右手がまったく使えず、左手一本で演奏をこなすという事件がありました。
これを機にヘロインをやめることになったとされるものの、
一時的な断薬には成功しても、晩年まで薬物との縁は切れなかったそうです。
エヴァンス本人のアルバムジャケットなどでは堅く口を結んだ肖像写真が多く使われたが、
歯を見せなかったのは、喫煙と麻薬の影響で歯がボロボロになっていたのが一因であると伝えられています。
3. おすすめのアルバム
私の好きなアルバムを紹介します。
ビル・エヴァンスの作品はハズレなくすべての作品が素晴らしいのですが
しいて挙げるとするならば、以下の3作品が聴きやすくおすすめです。
前述した『リバーサイド四部作』を聴いてみると良いかもしれません。
①『Waltz for Debby』(ワルツ・フォー・デビイ)
②『Explorations』(エクスプロレイションズ)
③『Undercurrent』(アンダーカレント)
まとめ
いかがだったでしょうか。
今回は、Bill Evans (ビル・エヴァンス)について紹介してみました。
まるでガラス細工のように繊細で美しい独自のピアノが演奏できたのは
彼がジャズ界における異端的な存在であり、そして白人であると同時に
誰よりも『脆く繊細な心』の持ち主だったせいかもしれません。
ぜひ、家でゆっくりと聴いてみてください。
それでは今回はこのへんで。
また次の記事で!
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